洛陽にて (2) by ひろ (ペンネーム: 結城 潤)

 「ここで降りて永観堂まで歩こう。」

 岡崎公園と動物園の間を通り、疎水を横切って若王子界隈に抜けるには
緩やかに続く上りの勾配を歩かなければならない。楽に行けるものだと
軽い気持ちで思いついた散歩だったのだが、しばらくぶりにここを訪れた
私は、すっかり距離感覚を忘れていた。

 普段歩きもしない生活が長かったせいか運動不足も極まり、ほんの数キロ
歩くのにも息を切らした。

 東山に向かう途中の交差点で立ち止まった時、まるでスローモーションの
映像を見ているような錯覚に陥り、私は動揺して立ち止まった。

 今年はじめに、辺りが回転するようなめまいに襲われて倒れて以来、
この種の状況には過敏になっていた。


 交差点の向こうからひとりの女性が歩いてきた。
 
 凛として背筋を真っ直ぐに伸ばし、胸を張ってゆっくりと歩道を渡ってゆく。
背中にまでかかる長い髪は艶やかな栗毛色でサラサラと微風と戯れている。
スラリとのび、程良く引き締まった脚が高いヒールの靴でアスファルトに
小気味よいリズムを刻む。水商売の女ではなさそうだし、かといって
普通のOLでもない。特別な美人、というわけでもないのに、
独特の雰囲気を醸し出す女性だった。
   めまいの発作だと思っていたのは彼女が持つ強いオーラが私を惹きつけた ために起きたものだった。  「さしずめ平安京の幻、といったところだな。」    そんなほんの数十秒の出来事を、私は半ば呆れ、半ば見惚れて眺めていた。 ふと我に返ったとき、彼女は雑踏に紛れてみえなくなった。  方向感覚もすっかり失せていた私は、随分と遠回りをしていた。市立美術館と 動物園の間を抜け、疎水にかかる橋のたもとで一息ついた。紅葉が美術館側から 疎水の方へ弧を描くように張り出していた。霜月上旬の今時分、紅葉の錦織には まだ幾分早いようだ。けれど今の自分には晴れ渡った青空を背景に彩り鮮やかな もみじを眺めるよりも今日のような曇天とやや緑を残した葉の侘びしげな風情が なじむ気がした。いろいろなものを失ってしまった虚ろな心に極薄の幕でも張る ようにしっとりと染み渡っていくようであった。    仁王門通りを越え岡崎通りを左に折れてしばらくゆくと左手に瓢亭が見えてきた。 歩き回ったせいか膝のあたりに痛みを感じ始めていた。  人力車の青年が声をかけてきた。  「乗って行かれませんか。」  「ああ、いや結構だよ。」    私は思わず苦笑した。    人力車といっても観光用なのだろう。女連れであれば話の種に乗ってみるのも 一興ではあろうが、疲れた中年男がひとり乗っているというのもいかにも侘びしい。 第一仕事とはいえ乗せてひいていく青年も決して楽しくはないだろう。  「永観堂は遠いのかな。」  「ここからですと、1kmくらいですかね。今なら紅葉も見頃ですよ。」  「悪いね、乗りもしないで観光ポイントまで尋ねたりして。」  「いえ、またの機会にご利用ください。」  「ありがとう。いつか乗せてもらうよ。」    風貌からは一見想像もつかない程腰の低い青年であった。会話を交わしながら、 ここ数ヶ月、人とまともに話をしていなかった自分にあらためて気づいた。  インクラインを越え南禅寺を横を通って私は永観堂へ向かった。
(2002.11.27)
Copyright(C) 2002-2003 結城 潤 

▼前号(1)へ ▲次号(3)へ   ▲ひろの連載小説へ戻る

▲OfficeKOBAのtopに戻る