洛陽にて (25) by ひろ (ペンネーム: 結城 潤)

 1年後。
 京の都に、いつもの暑い夏が戻ってきた。

 富貴子と日向家を巡る一件は、単純な問題ではなく、背後には暗く深い闇が潜んでいた。
 しかし、それが大きなスキャンダルとして表舞台に出ることはなかった。

 

 去年の夏、富貴子の事故のことを追いかけていた刑事が、秋口になって突然私を直接訪ねて
きたことがあった。それまで一切を弁護士に一任していた私は、少々身を固くしたものだ。

「今日は仕事のことやおまへんのや。私自身のことでちょっとご挨拶を、と思うた次第で。」

 私は事情がつかめず不機嫌な顔をしていたと思う。

「実は今度、秋田の方へ転属になりましてな。」

「ご栄転ですか・・・。」

「まぁ 見かけ上はそういうことになりますわ。せやけど実質は左遷ですねん。
例の一件からは手を引けと。刑事言うても宮仕えやさかいに、上の言うことは
絶対でしてな。わたしらも人の子、我が身はかわいいんですわ。」

 私は言葉がみつからなかった。刑事はポツポツと話を続けた。

「あんたはどない思うてはるか知りまへんが、一個人では逆らえへん、とてつもなく
大きな力が働いてまっせ。気いつけなはれ。命にかかわるやもしれまへんさかいにな。」

 相変わらず含みのあるしゃべりかたをする男だ。だが、私は敢えて多くを語らなかった。

「ご忠告、ありがたく受けとめておきます。」

「ほな、これにてさいなら。」

「あなたもお元気で。」

 刑事はくるりと背をむけると、片方の足を少し引きずりながら通りのむこうへと消えていった。



 吉田の下宿。

 千絵は富貴子が他界してからというもの、たびたび体の不調を訴え入退院を繰り返した。
 年のせいもあろうが日向を巡る一連の騒ぎが過ぎ去り、緊張の糸が途切れたのも原因だろう。

 最近は物忘れも多くなり、時折私のことも分からなくなることがあるようだった。
 それでも私を全くの他人と思っているわけではなく、古くからこの家にいる書生のひとりだと
間違えているようであった。

 表情はとても柔和で、一度たりとも険しい表情を見せることなく、
穏やかな笑みを絶やさなかった。

 その微笑みは生前の富貴子の笑顔に似ており、心和む表情だった。

 時折、中学時代の富貴子と芙美子の写真を見つめてはこうつぶやくのだ。

「あの娘たちは、ほんまに心優しいええ子らやったわ。」

 医者からは、そう長くは生きられまいと言われていた。
 だが千絵のこれまでの苦労を考えれば、人生の最期を穏やかな気持ちで迎えられることは
それはそれで幸せなのではないのか、と私は勝手に思うようにしていた。
(2004.09.02)
Copyright(C) 2002-2004 結城 潤 

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