主のいない部屋

　冬枯れの季節がやってきて日の陰りも早くなってきても拓哉は入退院を
繰り返していた。

　これといった強い副作用が出ているわけではなかったが、いつおきるのか
わからない未知の副作用や血液検査など、とても自宅で静養して経過をみる
ようなわけにはいかないようだ。

　そんな拓哉の実情を手紙で聞き、淳子は再び病院の拓哉のもとを訪れた。
　
「たっくん、私たっくんの部屋に置いてもらっていいかな。」

「え、いいの？家のこととか大丈夫？オレとしてはすごくうれしいけどさ。」
「うん。ここままだと、何かと不便でしょ？たっくんが早く退院して体力を
取り戻してくれないと私を北の大地に連れて行ってはもらえないでしょ？」

「はぁ、その通りでございます、お姉様。お言葉痛み入ります。それでは
お言葉に甘えて、是非。」

「なぁにいってんだか。とりあえず、身の回りのものが届くようにしたのよ。
断りなしだったけど、いいよね。」

「はいはい、仰せのままに。っていうか、すっげぇ汚いぜ、オレん家。」

「そんなこと、想像に難くないわよ。だいたい、男の子の一人暮らしなんて
汚いって相場が決まってんだから。掃除しちゃうからね！」

「恐れ入りますです。ははは。」

「うふふ。」

　二人はじゃれ合うように、言葉を交わしながら面会時間の最後まで過ごした。

　その日の夜、拓哉の部屋の鍵を預かった淳子は、拓哉のマンションへ足を
運んだ。鍵をあけ扉を開くと、しんという音に成らない音が聞こえてきて、
主の居ない静寂が暗がりの中の淳子を包み込んだ。
　
　それでも、その部屋には淳子の記憶の中にいる「あの頃の拓哉」と同じ空気が
流れていた。

　主の居ない部屋の、薄明かりのなかで淳子は不思議な安堵とぬくもりに包まれて
いることに気づいた。
　頬を伝うしずく。鼻の奥がつんとなり、目尻を伝う無数のしずく。

　ああ、今、見えない優しさに包まれている。

　落ち着きを取り戻し、部屋の明かりをつけると、雑然としてはいるものの
雑誌や書籍をかたづけただけで、あとは何をする必要もなかった。

　バッグを床に置き、ベッドに腰を下ろす。そのまま、ベッドに横たわると
拓哉の匂いがした。記憶の彼方の拓哉の香り。

　高校時代、一度だけ部室で抱きすくめられたときの拓哉の匂いと同じ。
すっかり忘れていたと思ったのに、あのときの驚きが今でも脳裏の片隅に
残っていたということだろう。

　淳子は全身でその空気を感じ取った。この数年、傷ついてボロボロになりかけた
心を支えてくれたのは他の誰でもない、拓哉だった。
　どんな時もどんなにわがままな事をいっても、拓哉だけは彼特有の器の広さで
淳子を受け止めてくれたのだった。
　その事にどれだけ癒され慰められたことか。

　拓哉が今、病魔と闘っている・・・。彼のためにできることがあるのなら、
迷わず手を差し伸べたい。

　淳子が大分の実家から拓哉のそばに来ようと思ったのもそんな気持ちに
突き動かされたからだった。

　窓の外には、冬支度をはじめた公園の木々が揺れていた。